小松成美が迫る頂上の彼方

第三部

“すごい”と思った人にとことんついて行く! 真摯な姿勢がツキをもつかむ

元中日ドラゴンズ

山本昌

写真/芹澤裕介 | 2017.07.10

“50歳現役”を叶えた、山本昌さんの鋼の肉体。しかし、そこにも山本さんのあくなき探究心と、周囲が何と言おうと、自分が惚れこんだ相手にはとことんついていく、という純粋な行動力がありました。

元中日ドラゴンズ  山本昌(やまもとまさ)

1965年8月11日生まれ。左投げ左打ち。日大藤沢高校卒業後、1984年にドラフト5位で中日ドラゴンズに入団。初勝利は入団5年目の1988年。以後現役32年間で、最多勝3回、沢村賞1回など数多くのタイトルを獲得。2006年には最年長記録となる41歳4か月でノーヒットノーランを達成。2008年には史上24人目となる200勝を達成し、2012年にはチーム最多勝利記録を更新。さらに、2014年には最年長勝利記録を更新するなど、晩年には数々の最年長記録を更新し、前人未到の50歳現役を実現。2015年に現役引退。通算成績は219勝165敗5セーブ。最新刊スカイマーク会長の佐山展生さんとの共同著書『生涯現役論』(新潮社)が絶賛発売中。

小松  山本さんが32年の長きに渡りマウンドに立てたのは、山本さんの肉体をつくり支えたトレーニングがあったのですね。

山本  はい、小山裕史先生の指導がなければ中日ドラゴンズのエースにも200勝投手にもなれなかったと思います。50歳まで投げられたのはまさに小山先生とのトレーニングの賜物です。小山先生に会ったのは、95年です。その年のシーズン中、膝が悪化して二軍でリハビリをしていた時、ナゴヤ球場のトレーニングルームに小山先生のワールドウィング社のトレーニングマシンが導入されてきたんです。1台100万円くらいするマシンが3台入ってきて、僕は早速そのマシンでトレーニングしたんですが、これが良いんですよ。

小松  どんな風に?

山本  キャッチボールが劇的に良くなりました。僕は、新人の頃からキャッチボールを大事にしていたんですけど、絶好調というのは年間に何日もないんですよ。キャッチボールが絶好調だと、もちろん登板しても調子が良いわけです。ところが、そのマシンを使って3日経つと絶好調になりましてね。これすごいマシンだなと思って、聞いたら鳥取の「ワールドウィング」のジムにはマシンももっと沢山あって小山先生の指導を受けながら合宿もできるということで、電話で申し込んで。そのオフに鳥取へ行ったんです。そうしたら先生と意気投合して、以後引退まで指導していただきました。

小松  95年のオフ、山本さんは膝の手術をしていますね。

山本  95年はケガに悩まされ続けました。わずか12試合に登板しただけの2勝止まり。二軍にも落ちてね。一番の原因は左膝の故障で手術を受けたんです。

小松  手術した膝のリハビリをスタートさせた山本さんは、どんな気持ちでしたか?

山本  もう引退も近いだろうな、と思っていました。年齢的に30歳を超えて、いつまで投げられるのか、という将来への不安を抱えていましたね。「鉄人」と呼ばれた衣笠祥雄さんでも40歳で引退しました。僕の頭のなかでも、「もう何年かで引退しなきゃいけないんだな」と自分を納得させるようなところがあったんですが、小山先生に会って「自分は変われる。変わっていかなきゃいけないんだな」と考えられるようになりました。日々、トレーニングの度に「この人すごいな」って思っていた小山先生に全部変えてもらおうと思ったんです。僕は余計なプライドを持ちません。野球経験のない小山先生の指導にもまったく偏見はありませんでしたし、良くなっていく体の感覚だけを愚直に信じていました。

小松  山本さんのその直感力、素直さが凄いです。

山本  自分をスターだなんて思ったことないですから、ゼロから教わることに何の抵抗もなかったですね。「初動負荷」と呼ばれるトレーニング理論に出会うことで、まず引退の不安が消え去りました。身体の動きの基本を重視し、潜在能力を最大限に引き出すことを目的とした理論と小山先生のマンツーマンのトレーニングで膝は完全に回復するんです。

 

チャンスは誰にでも訪れる
でも“もの”にできるかは自分次第

小松  膝の故障を克服した山本さんの活躍には目を見張りました。97年に18勝を挙げ、以後2000年に11勝、2001年10勝、2004年13勝、2006年11勝、2008年11勝、と二桁勝利を重ねて行きましたね。

山本  小山先生のプラス思考にも助けられ、僕自身も気づけば究極のプラス思考になっていました。小山先生は、僕の投球フォームを「美しい」と褒め、ピッチャーには向かない“がに股”も「むしろピッチングには有益だ」と言って、すべて肯定してくれたんです。言われる僕も、だんだんその気になっていきますしね(笑)。

小松  どんどん、相乗効果が生まれますね。

山本  そうなんですよ。小山先生も僕とのトレーニングの中で理論をさらに構築してブラッシュアップしていらしたようです。「僕はこう思うけどマサくんどう思う?」とか「マサくんこういうのやってみて」と言って、僕も「ちょっと違うんじゃないですか」とか「ああ先生これはいいですね」と言って、トレーニングとその成果を高めていきました。僕は、30代以降のピッチングに関しては小山先生と一緒にやってきたという気持ちが強いですね。30歳を超えて130勝したなんていう選手は僕くらいですから、それを実現してくれた小山先生への感謝は途轍もなく大きいです。今でも、よくぞ小山先生に出会えたな、と思うんですよ。あの時に膝の手術をしなければその後の出会いとトレーニングはなかったかも知れない。そう考えると、膝の故障、手術すら有り難い(笑)。

小松  究極のプラス思考が出会いとツキを呼びます。

小山先生は、僕の投球フォームを「美しい」と褒め、ピッチャーには向かない“がに股”も「むしろピッチングには有益だ」と言って、すべて肯定してくれたんです

山本  星野監督、アイク生原さん、そして小山先生。支えてくれる方がいたので地道な努力を続けられました。その結果、「41歳1カ月でのノーヒットノーラン」「50歳1カ月での登板」という、“日本最年長”の記録が生まれたんだと思います。

小松  山本さんはそれでも自分を「特別」だとは思わないのですか?

山本  まったく思わないですよ。僕のような平凡な才能しかない選手はへこたれている暇はなかった。でも、チャンスはみんなに平等に訪れるのだと思います。才能があっても、なくても、転機は等しく訪れる。それをものにできるかできないかは、自分自身のやるか、やらないか、にかかっているのだと思いますよ。

小松  訪れるチャンスを逃がさないようにつかむ。自分が求めなければ誰も与えてくれませんね。

 

アメリカで学んだ
貪欲なまでの探究心

山本  そうなんですね。それを知ったのが、アメリカでした。アメリカへ行ってみんなが自主的にやろうとしていること、それ自体がカルチャーショックでしたね。アメリカのコーチっていうのが、本当に最小限のことしか言わないですよ。「RUN!!」としか言わない。日本だと「走っとけ」と言ったら、トレーニングコーチがついてきて「タイム測るぞ」となるんですけど、アメリカだと自分たちだけで走って、全体練習は午前中で終わって、午後はフリー練習とかね。最初は、「こっちの選手はあんまり練習しないんだな」と思いました。でも、すぐに違うと言うことが分かりました。よく見ていると一人一人が研究熱心で、自分で考えて、自分のための練習をしているんです。休む日は休むし、追い込む日は追い込むし、メリハリもありましたね。ですから、アメリカでアイクさんに「お前はもっと色々覚えなきゃ駄目だ」「お前には変化球が必要だから先輩に聞きに行こう」と言われながら、「俺が死にものぐるいで覚えたいと思わなきゃ、覚えられないんだな」という頭になっていましたね。アイクさんに野球人としての貪欲さの基礎をつくってもらいました。そのあとは、小山先生に会って、いろんな技術であったり、コンディショニングであったり、勝つために考えなければならないことを学びましたね。そして、星野監督には勝利への執念を(笑)。

小松  スクリューボールの握り方を見せてもらっていいですか?

山本  いいですよ。こう握って、中指の外から出て行く感じですね。

小松  あ~こう出るんですね~。これ、横目で見ながら盗むの大変だったでしょうね。

山本  ええ(笑)。何度も自分で繰り返して、覚えましたね。中指を縦にすると、手首が立つんですよ。ああ、久しぶりにボールを握りましたが、指の開きが硬くなりました。現役の時はすっと握れたんですけど。

小松  新しく覚えて「やってみよう!」と思えた山本さんの「進化する力」は、小山先生との出会いでさらに開花するんですね。

山本  スクリューボールを覚えた副産物として、肘の位置が高くなってストレートが良くなった。野球にはそんなことも起こるんです。小山先生と出会ったことで、体の動きが良くなっているので、関節や筋肉の負担が軽くなる。それが50歳までできる秘訣になっていました。必死に求めようと思って得たことはプラスを1つではなくて、2つ3つに増やしていきます。

小松  人には誰にも平等にツキがある。それは同感ですが、アイクさんや小山先生との出会いとそれによる成果は、山本さんだから得られたものだとも思います。山本さんの謙虚さ、優しさを示す高校時代のエピソードがありますね。日本大学藤沢高校野球部3年生の時、中日ドラゴンズからの打診があったにも関わらず、チームメイトの大学野球部入りのためにプロ入りを見送ろうと思ったそうですね。進学を決めていた日大野球部から山本さんが入部すればあと2人の選手を受け入れる、でももし山本さんが入部しないなら受け入れる選手は1人だ、と告げられて山本さんは、一度はプロを諦め、チームメイトのために大学野球部を選んだ、という話しです。日本大学藤沢高校の先輩である私は、この話を後に聞いて、プロ野球選手ではなく「人間・山本昌」の大ファンになりました。

山本  ああ、あの時には、ずいぶん悩みましたね。

小松  なにしろ、山本さんのお父様が超中日ドランゴズファン。

山本  はい(笑)、そうなんです。父の出身が、長野県飯田市という愛知県の近くの街なんです。あの辺りは中部圏だからみんなドラゴンズファンなんですね。僕は子供の頃は巨人ファンでしたから、よく二人でナイターをテレビで観ては、言い合いしていました。僕は3兄弟の真ん中なんですが、僕が一番野球を一生懸命やっていましたから、父も僕への期待があったのだと思います。下の秀明はまだ小さかったですけど、兄はもう野球をしていいなかったので。

小松 ラフト5位で中日ドラゴンズに指名されますが、それでも迷っていたそうですね。

山本  ひとつは「自分には無理だ」と考えていたからです。神奈川のベスト8くらいじゃ無理ですよ。プロか否かの物差しが甲子園でしたから、やはり出ていない僕なんて、絶対に無理だと思っていました。日本大学野球部がとってくれるって言ってもらえたので進学するつもりでしたし、そこに「チームメイト2名」の入部の話もあったので、まあ、俺の進む道は日大野球部だな、と。

小松  ドラフトにかかり、お父様は毎日ルンルンしている(笑)。

山本  そうなんですよ。父は「どうするんだ?」って毎日聞いてくる。僕は「断るつもりだよ、行かないよ」って言っても、しつこく聞いてきましたね(笑)。

小松  タイムリミットもありますよね? 

山本  球団の方とお話をしていて、行かないとは思いながらも、どうやって断わればいいだろうなって思っていました。

小松  スカウトの方も日大藤沢高校出身の方で。

山本  はい、僕が中日ドラゴンズに行けたのは野球部の香椎瑞穂監督と、その教え子のスカウトの方のお陰です。大学野球部に行って教員免許を取って、高校で野球部の監督やろうと思っていた僕に、香椎監督が「お前ならいける!」と何度も言ってくださいました。チームメイトも、僕が日大野球部に入らなくても2名取ってもらえることになって、無事解決していた。「え、いいの!?」って思ったところへまた、香椎監督が「お前ならやれるぞ!」と言ってくださり、プロ選手を何人も輩出している監督の言葉で一気にプロへ傾きましたね。

山本さんの「進化する力」は、小山先生との出会いでさらに開花するんですね

小松  ところが、最初の練習に参加した時の衝撃が。

山本  そうですね。これはとんでもないところへ来てしまったな、絶対に無理だな、と思いました。

小松  余りに違いすぎました?

山本  もう、言葉も出ないほどに違いました。高校までは、結構肩も強く走れていましたが、小松辰雄さんのボールを見た時は、「ああ終わった」と思いましたよ。こんなことろへ来ちゃダメたった、と泣きそうでした。そこから、4年間まったくダメだったので、やっぱりな、という思いが強かったです。

 

あきらめず、ひたむきに継続
それが大きなツキとなる

小松  2軍スタートの時、力をつけていつか1軍へ上がってやるぞ、とはイメージしなかった。

山本  そうですね。イメージなんてないですね。1軍から呼んでほしいとは思っていますが、そこで勝てるとも思えなくて。今思えば、そんなんじゃ無理ですよね。ガキンチョでした。でも、実際、そのまま辞めて行く選手の方が多いんですよ。僕もその「辞めていく名もなき選手」の一人でした。

小松  実際、辞めることは考えましたか?

山本  辞めることは考えませんでしたが、いつもクビになることは考えていました。シーズンオフに入って寮に電話が来たら終わりだなと。人員整理には第一陣と第二陣がありました。第一陣でクビになる人は、秋季キャンプに連れて行ってもらえない。それで「あ〜、あの人クビなんだな〜」って。それで、それが終わって帰って来て、ドラフト会議後に第二陣があり、呼び出されて自由契約を告げられます。第一陣で5、6人。第二陣で、2、3人。ですかね。ドラフトの結果によっては、外国人の枠も用意しなければならないので、二軍の一勝もしない投手なんて、クビの最有力候補ですから、毎年ビビってましたね。

小松  次は自分だなって思っていながら、そうならなかった理由は?

山本  たまたまだと思いますよ。当時はただひたすら、差し出された契約書に「はい」って言ってハンコを押していました。

小松  そして、アメリカ「島流し」(笑)。そこから戻って5年目での初勝利っていうのは、本当に大変なことですね。

山本  この前、30年ぶりに会った2軍で一緒にやっていたプロの先輩に「お前が200勝越えして50歳まで現役やったなんて、本当に信じられない」と、つくづく言われましたから(笑)。その方は、真顔でこう言うんですよ。「あの時のお前を見ていてお前がこうなるなんて誰も思っていなかったぞ。本当に不思議だ。世界の七不思議よりもお前が不思議だ」と(笑)。

小松  山本さんの活躍が、世界の七不思議以上の不思議なんですか。

山本  そうはっきり言われました。同じプロ野球選手だから分かるんですよ。プロに入ったけれど、プロで活躍できる力などなかった。先輩は僕をそう見ていたんだと思います。僕自身もそのことに気がついていた。ああ、星野監督に島流しにされて、アイクさんに出会ってなかったら今頃僕は何をしていたのか(笑)。

小松  山本さんの努力、あきらめない心が道を切り開いた。

山本  まあ、ついていましたね。でもツキっていうのもちゃんとやっていないと来ないんだなと思います。いい加減にやっていたらツキって逃がしちゃうんだと思うんですよね。馬鹿正直にね。そこだけは50歳になってもぶれなかったですね。

小松  ご両親の教育、家庭の教えみたいなのもあったでしょうね?

山本  そうですね。それも感謝しないとですよね。そういう考え方は、両親が基礎をつくってくれたと思っています。母の姿を見てそう思いました。

小松  お母様の?

山本  母は、少年時代から野球をやっている兄弟三人の面倒を一手に引き受けてくれました。朝、3時4時に起きて弁当を作り、毎晩どろどろのユニフォームを洗って朝揃えておいてくれました。週末も年末年始もなく練習する僕ら息子たちのために時間を使っていました。一言も愚痴ることもなく、笑顔で明るく。母はあの頃何が楽しかったのかな、と考えたりしますが、同時に、きっとこれが自分の役割、使命だと信じて楽しく務めてくれたんだと思うんです。母のような生き方こそ、今は一番尊敬しています。

小松  素敵なお母様ですね。山本さんはそのお母様に報いました。でも、本当にトリックやマジックなんてないですよね。毎日やることでしか、結果は得られない。

山本  僕の人生100万回やりなおしても同じようにはできないと思います。自分でも、本当にうまくやったと思っていますもん(笑)。

小松  アスリートの世界には、星をもっているということも大事ですよね。山本さんは星を持っています。

山本  強運という意味では、持っていますね。清原和博とか桑田真澄とか松井秀喜とか、あのへんの選手はもう1回やり直してもまったく同じような活躍ができますよね。でも、僕とか、イチローとか、田中将大とか、わからないですよ。マーくんって中学でキャッチャーでしたから、ピッチャーが巨人の坂本で。あれは、誰かがピッチャーやれって言ったわけで。本人が言ったかもしれませんが。いや、お前はキャッチャーやっとけって言われていたら、今のようにはなってなかったですから。イチローだってピッチャーでしたよね。それがピート・ローズを抜く世界最多のヒットを打った選手ですから(笑)。

小松  多くの選手が、針の穴を通ってきているんですね。

山本  もう本当にそうですね。僕は、何万回やってもこういう野球人生は無理ですよね。おそらくプロに入ってないですよ。

小松  七不思議以上の不思議と言われる山本さんのツキをつかむ力は世界最高かも知れません。

山本  それは言えますね(笑)。善き人たち、善き機会に恵まれたこと、一人では何もできなかったことを、今、胸に刻んでいます。

[続く]第四回/“チームのために”が一番強い そう動けるスタッフを集めることがリーダーの資質

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vol.56

DXに本気 カギは共創と人材育成

日本アイ・ビー・エムデジタルサービス株式会社

代表取締役社長

井上裕美

DXは日本の喫緊の課題だ。政府はデジタル庁を発足させデジタル化を推進、民間企業もIT投資の名のもとに業務のシステム化やウェブサービスへの移行に努めてきたが、依然として世界に遅れを取っている。IJDS初代社長・井上裕美氏に、日本が本質的なDXに取り組み、加速させるために何が必要か聞く。
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