小松成美が迫る頂上の彼方
元陸上競技選手
為末 大
写真/芹澤裕介 | 2017.11.24
元陸上競技選手 為末 大(ためすえ だい)
1978年広島県生まれ。男子400メートルハードルの日本記録保持者(2017年10月現在)。2001年世界陸上エドモントン大会で、スプリント種目の世界大会で日本人初となるメダル(銅メダル)を獲得。2005年の同ヘルシンキ大会でも2つ目の銅メダルを獲得。シドニー、アテネ、北京と3度のオリンピックに出場。現在は、スポーツに関する事業を請け負う株式会社侍を経営し、スポーツに関する事業など多彩な活動をするほか、一般社団法人アスリートソサエティの代表理事などを務める。主な著作に『走る哲学』(扶桑社)『諦める力』(プレジデント社)『仕事人生のリセットボタン』(筑摩書房)など。
小松 為末さん、経営者としてベンチマークされていらっしゃる方、目標としている企業はあるんですか?
為末 そうですね。いろんな尊敬している人はいるんですけど。具体名ではなく、社会に貢献している人、企業、すべてです。僕が知らなくても、日本に、この時代に、貢献している人ってたくさんいると思うんです。僕も、その一人になれたらいいな、と。そして、そう言う人を結びつける役目を負いたいな、と。
小松 それの場所が為末さんのオフィスなら、本当に素敵ですね。
為末 僕の考えるトキワ荘、つまりホットスポットには、何かを「良くしたい」と思っている人を、できるだけ多く集めたいと思っています。
小松 為末さんは、トキワ荘の手塚治虫さんですね。
為末 いえいえ、僕の名前はまったく出ていないかもしれないですね。トキワ荘の管理人。手塚治虫さん、藤子不二雄さん、赤塚不二夫さんを支える存在がいいです(笑)。
小松 為末さんとはタイプが全く違いますけど、例えば、スティーブ・ジョブズだって、あの人、エンジニアじゃないですしね。
為末 そうですね。
小松 優れたエンジニアをスカウトして、寝ないで最先端の技術を形にさせて。それを見て触っては「いやぁ、これじゃダメだ」「ここの線、もっとなめらかに」と、ダメ出しをするみたいな。「このほうが、絶対みんな気に入るから」っていう説得をする、恫喝も含めて(笑)。面白いのが、彼がコンピューターの技術者ではなかったという点です。けれど、彼がいなければ、絶対にiPhoneはできていなかった。
為末 本当ですね。スティーブ・ジョブズが、インターネットに出会わなかったら、僕たちはiPhoneのない生活をしていたでしょうね。これは確信ですが、時代を変革させる何かが生まれる時には、時代や人の出会いも含め、必然があるんですよね。アイデアは、その人だけの頭から生まれるのではなくて、出会いのなかで生まれていると思っていて、だからこそ、その頻度と出会いの機会を増やすことが大事だと思っています。
小松 為末さんが、今に至るきっかけのひとつに、プロ宣言があったと思います。大阪ガスから独立して、フリーの陸上選手になるという選択は、今でこそ、そういう選択をしてスポンサーを得られる選手もいるけれども、あの時代では、全くの先駆者であり、いろんなことを言う人もいただろうし、まさに時代を分けた決断でした。
為末 そうですね。
小松 大阪ガスの陸上部をやめて後悔はなかったですか?
為末 なかったです。僕は「プロになるんだ」と思って、なった。本当にそれだけで、何も考えていなかったんです。だから、計画とか未来を見られなかったから、できたことのような気がしています。
小松 未来が予想できていたら、やっぱり怖くてフリーにはならなかった?
為末 そう思います。だから、実は僕、考えが浅いんでしょうね。予測が浅いから、決定が思い切りよく見えるみたいなところもあると思います。
小松 予測、予見が重要でもあるけれど、そうすることによって、時間をロスすることもあるでしょう。
為末 そうですね。
トキワ荘の管理人。手塚治虫さん、藤子不二雄さん、赤塚不二夫さんを支える存在がいいです(笑)
小松 私はアスリートを取材させていただいて思うんですが、アスリートっていう人生の寿命は人間の生涯よりははるかに短い。為末さんの場合だったら、現役生活23年でしたが、そこでひとつの人生が終わるわけです。その決断においては、淡々と流れる時間とはまた違う、急いた感じがあるのではないですか。
為末 あるでしょうね。僕自身は、20代で父親が亡くなったことが関係しているとも思っています。
小松 為末さんのお父さんは、54歳の若さで亡くなったんですね。
為末 そうなんですよ。自分の人生と重ね合わせるとあまりにも若いですね。これは、多くのアスリートに共通しているかもしれないですが、アスリートの敗北って、時間との闘いでもあるんですよ。時間さえあれば、もっと練習して、技術を高めて、世界一になれるんだって思っている選手もいると思うんですよね。だけど、常に間に合わない。そして、体の衰えという時間との闘いもある。
小松 そこにどう折り合いを付けていくか。特に陸上競技を選んだ為末さんは「世界一」への途轍もない距離を感じていたと思います。短距離走や110メートルハードルで日本人が金メダルを獲る可能性は、ゼロではないけれど、限りなく難しいわけですよね。
為末 そうですね。ハードル競技の話でいうと、こんなロードマップがあります。僕は広島の五日市っていう街に生まれ育って、そのコミュニティのなかでは「足が速い」ことは、相当かっこよかったんですよね。ハードル飛んで速ければ、なおかっこいいと思っていて、それがハードラーになった動機です。そんなもんです。良かったなと思うのは、陸上競技は素晴らしい、足が速いって素晴らしいことなんだって、信じ込んでいたことなんですね。今のようなIT環境もなく情報が乏しい。でも、走ることに集中できた。
小松 信じる力ですね。
為末 僕は、その信じる力を少年時代のまま持ち続けられた。34歳まで「素晴らしい!」と心の底から思っていたんです。今、ふり返って考えると、陸上一本が素晴らしいかって言えば、そうでもないんですよ(笑)。他にもたくさんいろんな道がありますから。でも、大事なことは何かっていうと、よそ見をしないで済んだ時代を持っているということが、とても大きいですね。ハードルを20数年打ち込んで、世界に近いところまで行くと、そこになんらかの哲学みたいなものが生まれてきます。それは、効率がよい人生を送るとか、成功して名を挙げる、とか、そういう問題じゃなくて、何かひとつのことを追求しきったところで、得る「信念」なんです。
小松 求道者としての探究があり、掴んだ信念。それは強く固いものでしょうね。
為末 はい、ハードルじゃなくても、けん玉でもよかったんですが(笑)、一番厄介なのは、途中で「これじゃないんじゃないか」っていう気持ちになってしまうことなんですよね。広島カープが好きで、周りに野球選手がいたりして、野球も大好きだったんですが、僕はなぜか運が良く、「自分はハードルなんだ」って、本当に信じ込んでやってこられた。運が良かったなと思いますね。そしてもうひとつ、運が良かったことは、マイナー競技だったことです。
小松 マイナー競技で良かった?
為末 マイナーだったおかげで、比較的早い段階から自分で領収書をもらって、これがなんの経費に割り振られるかとか、そういうビジネス的なことを、なんだかんだやっていたことです。やらざるを得なかったんですけれど。それが、すごくよかったなと思いますね。プロになって分かったのですが、成績によって契約金の桁が違うわけですね。やっぱり金メダリストやサッカー、野球になると入ってくるお金が一桁以上違うんです。
小松 金メダルではないから、ということ?
為末 単純に世間の知名度ですね。代理店が出す知名度とか、イメージ調査と、それを企業がどう使うかとか。
小松 イメージに対する対価が金額になるんですね。
為末 そうですね。そうすると、経済観念を猛烈に持ち始めるわけです。本当に小さな話なんですけど、これは、接待交際費にあたるのか、それとも打ち合わせ費、みたいなことです。
小松 自分でやっていたんですか?
為末 ええ。とにかく、常にそういうことを考えていました。海外遠征に行くにも、自分で安い航空券を探して、四つ星じゃなく三つ星のホテルを押さえて。今、会社を経営する立場になって、あれやっておいて本当に良かったなって、思いますね。
小松 オリンピックを目指すなかで、全部自分でやっていたんですね。
為末 そうです。当時は株式会社サニーサイドアップという会社でマネジメントをして貰っていたのですが、あの中田英寿さんも所属していて「中田さんのようになりたい」と、密かに羨んでいました。が、引退してみると結局自分でやっていた経験が、今につながっていますね。会社はそんな高いところから、始められないので。小さな収益の積み重ねです。実際、自分が過ごしてきた背景や経験を生かすことが、ビジネスの進め方に直結しています。
為末さんは「人生は有限である」という現実から目を逸らさずブレない。必ず、人生には幕が下りると知っている
小松 為末さんの在り方は、アスリートの成功例のひとつです。
為末 自分ではそう思います。もちろん、華やかさや豪華さがスポーツ選手における大きな成功の指針でもありますが。テニスの錦織圭選手みたいに、数十億円稼いで、プライベートジェットで移動して、グランドスラムに手が届く戦いをすることこそ、トップアスリートの姿です。僕自身、それを夢見て「なんでこんなレベルなんだ」と思うこともありました。しかし、やがてハードルを30代まで続けられたことこそが幸せなことで、その間に得た思い、考えこそが財産なんだと分かるようになりました。
小松 無駄な経験はないんですね。全員が頂点には立てない現実を知り、また自ら考えることが揺るぎない哲学を生んでいくと信じられるのですから。
為末 そうですね。僕はハードルに打ち込んで、打ち込んで、引退を迎えた陸上選手で、常に目標を決めてそこに向かって進んでいました。経営者もそうですよね。企業としての在り方、業績を示す数字などを掲げてそこに一心不乱に突き進む。僕も明らかにそのタイプです。けれど、今の僕の経営は真反対ですね。「この瞬間にこれに集中していたら、こんな人に出会って、こんな道を進むことになりました」っていう。
小松 この瞬間こそ、大切です。その一瞬が積み重なってプロセスになるわけですから。
為末 はい。今は「目標も実はなかったんです」っていう経営もあると思うんですね。自分が、どこに行くかはまだよく分からないんですけど、とりあえずこの瞬間を一生懸命やるには、多分これじゃないかっていうことを、やっていくというスタイル。
小松 ライフシフト的な考え方ですね。100歳時代の一年一年を細かく決めることは無理です。面白そうな方、楽しそうな方に行ってみよう、と歩を進めていく。
為末 似ていますね。将来はこうあろう、だから今何をすべきか、っていう考え方だと、よく分からないこともあると思うんです。だって、明日僕は何を思うか分かりませんから。だけど、今この瞬間はとにかく一生懸命やろう、と思って、とにかく前進する。そういう意味で、僕はプロセス型だと思っています。それが、いいんだっていうわけでもなくて、どうも今の自分があまりにも変わりすぎて、決められないんですけどね。
小松 常に変化する為末さん。社員の方々は大変ですか?楽しんでいるかな?
為末 楽しんでくれるから今一緒にやっていると思います(笑)。
小松 そして、同時に、為末さんは「人生は有限である」という現実から目を逸らさずブレない。必ず、人生には幕が下りると知っている。若いときには、こんな日が永遠に続くと思ってしまいますが、時間や健康な体、人との出会いは永遠でないとお父さんが教えてくださった。
為末 人生においては、早過ぎた父の死は得ようと思ってした経験ではないけれど、これ以上ない教えになっています。
為末 そうですね。
小松 突然、訪れた悲劇だけれど、でも人はそこから学ぶでしょうね。
為末 その通りですね。
小松 そして、それをどのように身にするかっていうのが、大事なんでしょうね。
為末 とにかく、自分の人生を振り返って言えるのは「人は変われる」っていうことと、「明日、新しい自分になれる」ということです。ハードラーの僕と経営者の僕が明らかに違いますよ。僕は、40年に満たない人生のなかでそれを知ったことだけでも大収穫だと思っています。
小松 変化は楽しいですね。
為末 はい、楽しいです。変わった自分は実は常に新しい経験をしています。だから、計画通りに行かなくてもいいし、失敗しても、頑張ってもう1回、何かしてみればいい。そのためには、まさに小松さんがおっしゃったように、得た経験に何を学ぶかっていうことですよね。僕も、今一度、自分自身に言い聞かせますよ(笑)。
小松 経験の一つひとつが授業ですね。
為末 はい、どんな状況が訪れてもそれが人生のレッスンだと思って、臨むことができたらと思います。
vol.56
DXに本気 カギは共創と人材育成
日本アイ・ビー・エムデジタルサービス株式会社
代表取締役社長
井上裕美