小松成美が迫る頂上の彼方

第三部

どんな困難にぶつかっても “明るい方”に舵を切る

海洋冒険家

白石 康次郎

写真/芹澤裕介 | 2018.02.09

世界一過酷ともいわれるヨットレース「ヴァンデ・グローブ」でのリタイアなど、大きな挫折も経験している白石さん。しかし、その口から語られる言葉は、常に前を向いた発言のみ。そこには、師匠や父親といった、先人たちの存在が。白石さんを育てた男たちの背中に迫ります。

 海洋冒険家 白石 康次郎(しらいし こうじろう)

1967年5月8日東京生まれ鎌倉育ち。高校在学中に単独世界一周ヨットレースで優勝者した故・多田雄幸氏に弟子入り。レースをサポートしながら修行を積む。1994年、当時26歳でヨットによる単独無寄港無補給世界一周を達成。自身3度目での達成とともに、史上最年少記録(当時)を樹立。その他数々のヨットレースやアドベンチャーレースで活躍し、2006年には念願の単独世界一周ヨットレース「5OCEANS」に参戦し、歴史的快挙となる2位でゴール。2016年11月にはアジア人として初となる世界一過酷なヨットレース「Vendée Globe」への出場を果たす。比類なき経験と精神力は教育界からも注目され、課外授業や企業での講演も多数行っている。主な著書に、『七つの海を越えて』『世界一過酷な海の冒険 アラウンドアローン』(文藝春秋)、『人生で大切なことは海の上で学んだ』(大和書房)、『精神筋力』(生産性出版)などがある。

小松  ヴァンデ・グローブでマストが折れてリタイアした後、エンジンの封印を切って、航行したそうですね。

白石  そうなんですよ。ケープタウンに向け航行をするのですが、エンジンを動かすのが辛くて苦して、涙が止まらなかったですね。そして、走り出すと、日本のスポンサーはじめお世話になった方々へ、リタイアを報告する衛星電話をかけました。皆さんに励ましと温かい言葉をいただき、また泣いて。その後には、ヴァンデ・グローブの生中継に出演しました。去って行く前に海の上から、ちゃんとフランスのファンの皆様、スタッフの皆様にお礼を言わなければならない、と思ったから。日本人初出場の僕を応援してくださってありがとうございました、と心からの感謝を伝えました。この中継は、泣かずに笑顔で乗り切りましたよ。

小松  ケープタウンへ安全に航行することも大変ですよね?

白石  ええ。なので、デッキでいろいろ作業しました。マスト上部は縦に竹を割るように亀裂が入っていました。そのマストの途中まで登って、上部のスプレッダーや絡んだコード、ステイなどをすべて取り除いたんです。大変やっかいな、危ない作業でしたが、うまくできました。あとは、マストについていたAISが壊れていたので、緊急用のVHFアンテナを改造してサイドステーに取り付けました。すると、ナビゲーション上で他の船が確認できました。ほっとしましたね、この時には。入港時には船が多いのでナビゲーションが復活して一安心でした。

小松  リタイアのための航行中、ヴァンデ・グローブのレース中のスキッパー仲間から数々のメールをもらったそうですね。

白石  そうなんですよ。同じ嵐を乗り越えた同士たちの心からのメッセージにただ感激していましたね。中でも、世界最高のスキッパーであるローラン・ジョルダンさんのメッセージには胸がいっぱいになりました。彼はサフランチームの監督で、僕同様、チームはリタイアを表明していたんです。ケープタウンでラダーを直し、フランスまで回航中に洋上から送ってくれました。そのメールがこれです。

「今、コンカルノーへ航海中の私(ビルー)含め、スタン、クレマンから残念の言葉しか思い浮かびません。

航海中の3人とカイロスのみんなは悲しんでいるし、白石さんとチームのことを今想っています。

白石さんが健康で怪我をしていないことを願っている。

我々サフランチームはリタイアしましたが、ポジティブにこの試練を受け止めて、白石さんにもこの思いを伝えたいと思っている。

コージは偉大な人です。精神の偉大さ、優しさ、そしてこのプロジェクトへの思いは人一倍だったと思う。

この辛い思い、リタイアすると言う一言、このアドベンチャーが一瞬で終わることは僕もヴァンデ・グローブを2回リタイアしたから分かる。

でもこの旅はこれで終わりではない。雨の後には晴天が来るということは忘れないでほしい。

ケープタウンに早く安全に帰還してほしい。そこには温かいお迎えが待っていますから。

もしケープタウンで必要なことがあれば何でも聞いてください。

また近々会おう!」

小松  海の男の優しく清々しいメッセージですね。

白石  はい。このメールを読んで、気持ちが随分落ち着きました。日本人初出場で初完走なんて、甘すぎました。優勝争いをしているスキッパーも他の名スキッパーも何度と無く涙を呑んで再び挑戦していたんです。僕の親友のベルナールは4度もリタイアを余儀なくされていました。みんな、何度も何度も辛い思いをして立ち上がり、また海に戻るのだと胸に刻んだメッセージでした。

小松  つまり、リタイアはレースの終わりではなく、次のレースの始まりなんですね。 

白石  ヴァンデ・グローブのレース委員会からも「康次郎、お前のレースはこれで終わったんじゃない。これからが始まりだ」って書いてくれて。それが、すごい力になったんです。一回失敗してクヨクヨしてるようじゃ笑われちゃうよな、と背筋が伸びました。仲間って、大切だね。

リタイアはレースの終わりではなく、次のレースの始まりなんですね

小松  大切ですね。白石さんは子どもの頃から、元気で明るく前向きな性格だったんですか?

白石  はい。言うなれば、「生まれたままっぱなし」です。そんな感じするでしょう? 小学校の同級生が今も言いますよ、「おまえは40年経っても。何も変わらない」って(笑)。

小松  白石さんの著書『七つの海を超えて』の中に、先生に怒られて、机ごと廊下に出されても、“超”楽しそうにしているうちに、友達が白石さんと机を並べるエピソードがありますね。

白石  最後は机が7つになりましたよ。怒られて廊下に机ごと出されて、泣きべそかいたり、シュンとしているんじゃつまらないから、どうすれば自分もクラスのみんなも楽しくなるだろう、と考えるんですよ。それで思いついたのが、廊下から授業に参加する、ってこと。廊下の窓から僕が楽しそうに「先生、質問があります!」って言うと、その度にクラス中が大爆笑になるんです。怒られたことも、廊下に出されたことも、僕に取っては全部楽しい思い出ですよ。ほら、小学校から変わらないことやっていますよね。ヴァンデ・グローブも「スピリット・オブ・ユーコー」号のマストが折れて悲惨なリタイアのはずだけど、今は「こんな経験できて良かった、楽しかった」と思っていますからね。

 

黙って見守る父親と、家族のような師匠

小松  白石さんが最初に海に憧れを抱いたのは何歳の頃ですか?

白石  幼稚園時代からかな。

小松  幼稚園?!

白石  たまたま幼稚園が海岸の近くだったので、海にはすでに憧れていました。

小松  生まれたのは東京の赤羽ですが、そこから鎌倉に引っ越すことになったんですね。

白石  そうです。毎日、海を見ては遠くに行きたいと思っていました。海の先には何があるんだろう、って好奇心が止まらない。僕のエネルギーの源は、間違いなく好奇心です。

小松  その好奇心を行動に移して水産高校へ行くことを決めた時にも、お父さんは反対しなかったそうですね。

白石  父から「おまえ、どこ行くんだ?」と聞かれて、「水産高校へ行くよ」と話したら、「おまえ魚屋になるのか?」って言われて、「いや、違うよ。俺、船に乗って世界一周するんだ」と答えると、「そうか」としか言いませんでした。

小松  そうだったんですね。

白石  理由も何も聞かない。何にも聞かない親父でしたね。

小松  好奇心の塊だった白石さんを、すぐに弟子にしてくれた多田雄幸さんも凄い方ですね。

白石  そうですよ。普通じゃないです。僕が多田さんの弟子になろうと思ったのは、ヨットレース「BOCチャレンジ」で優勝した後の記者会見での一言でした。

小松  なんて言ったのですか?

白石  多田さんがテレビのニュースでインタビュー受けるんですが、「優勝おめでとうございます」と言われた瞬間に、こう返事をしたんですよ。「優勝なんてグリコのおまけ」って(笑)。

小松  「グリコのおまけ」?!

白石  僕はその時、多田さんに凄みを感じていました。高校から船乗りの端くれだったので、多田さんのヨットレースがどれだけ厳しい航海だったか想像できましたから。そんな偉大な優勝を、「グリコのおまけ」って言ってのける凄さに、やられましたね。あ、この人は凄い、ただ者じゃないなと思って、会いに行くことしか考えませんでした。

小松  多田さんの弟子時代はどんな時代でしたか? 

白石  いや、修行みたいなことはなんにもなかったな。多田さんは、僕を弟子と思っていなかったと思います。僕が惚れて、多田さんにくっついていただけで、多田雄幸は僕のことを、家族のように迎えてくれましたよね。僕は言葉では足りないくらい、僕は多田さんが大好きでしたね。

小松  男として認め合い、家族のように暮らした方が自ら命を絶って突然に消えてしまった。白石さん自身、よくその時期を切り抜けましたね。

白石  まさかの出来事でした。うちの師匠はね、躁うつを繰り返していたから、うつ症状になっても、またいずれ復活するだろうって思ってしまったんです。僕もちょっと、うつ病の知識が足りなくて。抗うつ剤も飲んでもらってたんだけど、齢を重ねるとともに、落ち込みが激しくなるんだそうです。若い時と違って体力がないから、元気になるまで体力的に持たない。もう少し、側にいた僕が気にかけていたらと、未だに悔やんでいますよ。もっと、できることがあったんじゃないか、って・・・・・・。

小松  愛する多田さんを失った白石さんは、どうしたら多田さんが喜ぶか考えたんだそうですね。

白石  はい。うちの師匠は僕がどうしたら喜ぶかな、と考えて、考えて、出した答えが、「多田さんの名前を掲げたヨットで世界一周しよう」というものでした。

小松  自己資本ゼロからお金を集めるところからはじめたんですね。

白石  そう。まだ何物かも分からない僕にお金出してくれる人なんて、誰もいなかったです。唯一、スポンサーになってくれたのが文藝春秋のスポーツグラフィック誌「Number」の設楽敦生編集長だけ。

小松  その時、生まれて初めてお父さんにお金を借りたそうですね。

白石  そうですね。親父は、こう言いました。「そんな危ないものに、金を出せるわけがないだろう。ただ、掘り出しモノの船があってそれが欲しいというのなら考えてもいいよ」と。

小松  二つに割れる心を、そのまま表現していますね。遭難を心配するようなヨットは、本当は嫌だけど、息子の夢にNGは出さない。

僕が多田雄幸さんの弟子になろうと思ったのは、ヨットレース「BOCチャレンジ」での優勝記者会見のたった一言

白石  うちの親父も言ってることとやってること、ズレたこと1回もないんですよ。うちの親父が、愚痴った姿も1回も見たことない。昭和一桁生まれだから、躾はものすごく厳しかったんです。けれど、僕に反対したことは1回もないわけ。もちろん賛成もないけど。

小松  船に乗る時も?

白石  良いとも、ダメとも、一切言わない。

小松  自分で決めなさいと?

白石  その通りです。それは、僕だけじゃなくて、兄にも妹にもそうでしたね。

小松  子どもであっても、違う人格で、進むべき道が違うと、お父さんは知っていたんですね。

白石  そうなんだと思います。うちの親父が、教育雑誌で取材を受けた時の言葉が忘れられません。「子どもっていうのは、親の言う事を聞かない。しかし、親のすることを、真似するものである。とにかく私のモットーは、子どもの邪魔はしない、ということです」と。僕たち兄妹にも、あれやっちゃダメ、これやっちゃったダメ、と反対したことは一回もないです。最後は、「俺は子どもの世話にはならない」と言って、一人暮らしの家で、誰も呼ばずに一人で息を引き取りました。

小松  強いお父さんですね。

白石  うちの親父は子どもを尊重をしてくれました。僕はヨットの世界に突き進んで、兄も夢叶えちゃってる。子どもの頃、星が大好きで今プラネタリウムのエンジニアやってるんです。

小松  尊重する心は、すなわち否定と対極ですね。

白石  はい。「おまえ、ヨットなんかやって食えんのか」「おまえ、大学へ行かなくて学歴は大丈夫か」「英語できなくて海外で生きていけるのか」と否定をされたら、子どもは前を向かなくなってしまう。親から恐れを植え付けられた子どもは、自ら成長を止めるんです。

小松  1人の人間が生きていくうえで、どこに、どのような可能性があるかは、親だって分かるはずがないですよね。

白石  その通りですよ。僕、英語しゃべれないでしょ。フランス語できないでしょ。でも、七つの海を縦横無尽に行き来して、世界一周してるじゃない。僕、高校の成績は「2」ばっかりだったんだよ。でも、知識への欲求は50歳になっても失うことがないし、本だって7冊出していますよ。つまり、恐れないことが大切なんです。今になって、父親に感謝しているのは、心配という言葉に名を借りた否定を一切しなかったことですね。

小松  世の中は、人の思いと行動でできていると思います。

白石  「あなたはどっちに舵切りますか」聞かれたら、僕は、こう答えます。「楽しそう、面白そうと思う方です」と。たとえどんなに、茨の道だろうが、自分で切った舵なら、後悔なんてないですよね。

小松  こうした生き方は、白石さんが幼くしてお母さんを失ったことと関係あるでしょうか。

白石  そうですね、ありますね。小学校1年生の時に母親が交通事故で亡くなりました。だから、母親のことほとんど覚えていないんです。

小松  寂しかったでしょうね。

白石  まあそうでしょうが、ばあちゃんが一緒にいてくれたし、兄と妹も、友達もいたので寂しさを感じる暇がなかったです。むしろ、母親がいたら、どこかで自分にブレーキをかけていたかもしれません。母親がいなかったから、黙って自分に向き合う忍耐力と、何から何まで自分でやらなきゃっていう技量をもらったのだと思います。

小松  そう言い切れる白石さんは、幼い頃、お母さんには二度と会えない絶望に、必死に打ち勝ったのだと思います。

白石  ふと、こう考えることもありますよ。母親がいたらヨットに乗らない人生でもよかったかな、と。僕は知らないけど、母親はすごくいいものらしいんですよね。すごく温かくてね、絶対的な味方でね。僕もそうした人がいたら、その人の側を離れたくない、と思ったかも知れません。

小松  そうだったかも知れませんね。

白石  けれど、僕はそうした存在を人生の最初の方に失いました。その代わり手に入れたものは、たった一人でなんでもできる技量と経験。人は2つのものを同時に得られないのでしょう。この人生、僕の使命は、大海原でも、陸上でも、命の限りやり切ることなんだと思います。

[続く]第4回/2月21日ごろ公開予定

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vol.56

DXに本気 カギは共創と人材育成

日本アイ・ビー・エムデジタルサービス株式会社

代表取締役社長

井上裕美

DXは日本の喫緊の課題だ。政府はデジタル庁を発足させデジタル化を推進、民間企業もIT投資の名のもとに業務のシステム化やウェブサービスへの移行に努めてきたが、依然として世界に遅れを取っている。IJDS初代社長・井上裕美氏に、日本が本質的なDXに取り組み、加速させるために何が必要か聞く。
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