スーパーCEO列伝

斬新な発想で人の心を掴め!

株式会社ゼットン

代表取締役社長

稲本健一

写真/宮下 潤 文/髙橋光二 マンガ/M41 Co.,Ltd | 2015.06.10

学生、商社マン、デザイナーの各時代を通じてバーテンダーのアルバイトを続けたほどの酒場好き。デザイナー時代にプロデュースしたビアガーデンが大成功し、エクスタシーを感じる。しかし・・・・・・。「プロデュースだけでは、開業後の地獄はわからない」知人の一言に奮起し、飲食店経営の世界に飛び込む。

自分のフィーリングを頼りに、常に新しいアイデアで次々に店を企画しヒットさせてきた。「店づくりは街づくり」という基本理念の下、人を集める魅力的な企画に才能を発揮。公共施設の再生・活性化にも幅を広げ、店づくりを通じて街のにぎわいづくりに貢献している。そんな稲本健一氏の、“繁盛の方程式”とは?

株式会社ゼットン 代表取締役社長 稲本健一(いなもとけんいち)

1967年12月11日名古屋生まれ、金沢育ち。商社マン、プロダクトデザイナーを経て、93年、期間限定ビアガーデンのプロデュースを手掛けたのをきっかけに飲食ビジネスの世界へ。95年、株式会社ゼットンを設立しレストランバー「zetton」をオープンさせる。その後もさまざまな業態の飲食店を展開し、レストランウェディングなどにも進出。さらには、名古屋の「ランの館」を皮切りに、「徳川園」「中部国際空港」「テレビ塔」、東京の「三井記念美術館」など、公共施設をレストランビジネスで活性化させる「パブリックイノベーション&リノベーション事業」にも積極的に取り組み注目を集める。2006年には名古屋証券取引所セントレックス市場に上場を果たす。現在、東京・名古屋を中心に海外含め70店舗を展開。飲食を通して街の活性化、新しい文化の醸成に取り組んでいる。

稲本健一に学ぶヒット継続の秘密「あえて人がやらないことに挑戦」

1995年11月に第1号店をオープンしてから、20年で75店舗以上を出店しているゼットン。それらの中には、稲本の考え方を変え、成長させる節目となった店がある。各店舗が残した意義とは。

[1995年]ZETTON「冬にオープンカフェを開業」という未熟からのスタート

1995年11月に名古屋の栄にオープンした第1号店のレストランバー『ZETTON』。金沢の祖母の家を担保に、3000万円借りてつくった店だ。名古屋初の、夜中の3時までお酒が飲めるオープンカフェという理想的な店。

ところが集客はさっぱり。自転車操業だから真っ青になった。客引きなどジタバタやってもダメだった。すると、春になって日に日にお客様は増え始め、ついに行列も。よく考えてみれば、寒い冬にオープンカフェなどそぐわないのはもっともなこと。そんなことにも気づかなかったことに、気づいた。

[2000年]JINRO STYLE“火事場の馬鹿力”のプレゼンが通じて、首の皮をつなぐ

4号店まで繁盛させたのはいいが、5号店で大失敗。決まっていた東京の第1号店の出店費用も目減りさせてしまった。思い悩んで六本木を歩いていた時、「JINRO」の看板を見てひらめく。看板費用を調べると月80万円。3年で3000万円弱。1店舗つくれる。看板では認知度はアップしてもブランドイメージは高まらない。

幸い、JINROには知人がいた。そこで「1杯目から女性にもJINROを飲ませ、トレンド発信させる店」をプレゼンさせてもらう。必死さが認められ、出店したらヒット。なんとか東京出店費用を取り返し“首の皮一枚”をつないだ。“火事場の馬鹿力”だったかもしれない。

[2004年]徳川園“付帯施設”から“集客施設”への、発想の転換

愛知万博の前年、名古屋の迎賓館として徳川園の整備計画が持ち上がる。そこでの併設レストランのコンペに応募した。その前に名古屋市が運営する「ランの館」で公共施設への出店経験があった。

公共施設の飲食店は、そこに来る人のための“付帯施設”。それでは施設の集客力に左右される。我々は、“集客施設”をつくって成功させた。徳川園へのプレゼンでは、800円のカレーなどを提案する業者ばかり。我々の提案は、ランチ4,500円、夜は1万円以上。国宝の家康の刀を飾る場所に相応しいと考えたから。

「あり得ない」という市の反応のなか、徳川家当主が「もっともな提案」と評価してくれた。一方、債務超過に陥るも、1年で取り戻し、上場に繋げ、会社のフェーズが一変した店でもある。

[2005年]Aloha Table本店はホノルル。“外国人が銀座で寿司屋”と同様の勝負

ハワイのコーヒー会社の役員をしていたことがある。ハワイのコナコーヒーは高く、日本では簡単に売ることが難しかった。そこで、ハワイアンカルチャー全体の中にコーヒーを置いて売ることを思いついたのが始まり。本物さを求めてホノルルに本店を出した。よく考えれば、“外国人が銀座で寿司屋を出す”のと同じ沙汰(笑)。

ところが始めてみると、老若男女に受け入れてもらえ、集客力の高さは想像以上だった。日本でもハワイアンのスローな業態が乏しかったこともあり、大ヒット。気づいたら30店舗になっていた。ただし、すでにレッドオーシャン化し始めている。メキシカンと組み合わせるなど新味を出しながら、新しい世界を創り続けたい。

[2007年]Ocean Room“好き”を貫くことがヒットの法則、を見出す

2007年、シドニーのオペラハウス前の巨大なシーフードレストランを買収・改装した初の海外店(2014年に一帯の再開発で閉店)。

自分は、海が好きで青空が好き。ハイテンションの街がカッコイイと思う。治安はよく、街を行きかう人はイカした人ばかり。そんな場所にしか住みたくないし、ビジネスもやりたくない。

現在、1年の3分の1はハワイで過ごしている。好きな環境にいることで、人は豊かになれる。このライフスタイルを貫くことで、結果的に共感してくれるスタッフが残っている。それ以外の似つかわしくないことをしても、喜ぶ人はいない。このスタイルなら、負けない自信はある。仕事とはそういうものだと思っている。

SUPER CEO Back Number img/backnumber/Vol_56_1649338847.jpg

vol.56

DXに本気 カギは共創と人材育成

日本アイ・ビー・エムデジタルサービス株式会社

代表取締役社長

井上裕美

DXは日本の喫緊の課題だ。政府はデジタル庁を発足させデジタル化を推進、民間企業もIT投資の名のもとに業務のシステム化やウェブサービスへの移行に努めてきたが、依然として世界に遅れを取っている。IJDS初代社長・井上裕美氏に、日本が本質的なDXに取り組み、加速させるために何が必要か聞く。
コンテンツ広告のご案内
BtoBビジネスサポート
経営サポート
SUPER SELECTION Passion Leaders